ブラジル訪問記

カルロス・ジョビンゆかりのバーにて(リオ・イパネマ)

 

2004年9月、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、そしてバイーアにいってきました。

あまりのすばらしさに、未だ頭が呆然としている。

とにかく地球の反対側、えんえんと24時間かかって、やっとたどり着いたという感じ。

ロス経由、サンパウロを通過点として、ボサノバの生れたイパネマのある街、カルロス・ジョビン空港に降り立った。

迎えに来てくれたガイドの太田さんと、そのままキリスト像のあるコルコバードの丘に向かう。

機内で飲んだ眠剤のおかげでよく眠れたせいかとても元気、登山電車でゆっくり登っていく。

ちょっと前までは沢山の階段を登ったというが、今はエレベーターなどもあって、すっかり観光化されている。

キリストの足元から見るリオの眺めはほんと絵葉書そのまま。

帰り、日本ブラジル文化局長の柳井さんに会う。

探していたトム・ジョビン記念館はまだまだ出来ていなかった。

 

コパカパーナのホテルから1ブロックで海岸に出る。

イパネマ、レブロンまで海岸通りをゆっくり歩いた。

着いた日に食べたシュラスコ料理、肉が次々と出てきて胃にもたれてしまった。

リオは丁度冬から春になるところ、湿気がないので35度位まで気温が上がっても、木陰に入るととても涼しい。

リゾート地だけあって皆すごいビキニ姿、泳いでいる人、遠くにサーファーの波乗り、ビーチバレーもそこここで…。

何といってもイパネマ海岸がいい。打ち寄せる波をぼんやり眺めながら、砂の上に寝転ぶ。 

 

 

夜、イパネマのモライス・バーで本場のボサノバを聴く。

ボサノバの生れたしっとりとした街、地元の人達はとても優しくて親切。

湖のそばにあるMistura Finaというクラブでジャズを聴く。

ブラジル人は自分が楽しむ事を知っていて、まわりにどう思われようが平気。

ファベーラ(貧民街)のモーホ(丘)がすぐそこに……この経済的落差……。

私は深く考えるようになった。

さあいよいよバイーア出発です。

 

いよいよ待望のバイーアヘ。

ガイドの太田さん(日系3世)、運転手のカルロス(ジーコにそっくり)に見送られて

小さな飛行機に乗る。

2時間位で上空からサルヴァドールの風景が見えてくる。

世界遺産にもなっているブラジル第三の街、サルヴァドール(バイーアともいう)。

ジョアン・ジルベルトを始め、MPB4人組や近くはカルリーニョス・ブラウン、

そしてオロドゥンの生れ育ったところ。 

道端で子供達が空き缶をたたいている、そんなものでもいいから聴きたいと思っていたら、

着いたその日に、オロドゥンのライブを聴くことができたのだ。

夜は気をつけてと言われていたので、緊張の極度でタクシーに乗る。

ペロウリーニョ広場はものすごい人だかり、あちらこちらでサンバのリズムにのって、

少女達の、子供達の、力強いタイコの音がきこえてくる。

黒人がもたらした宗教音楽と、原住民の音楽が一つになって出来たというサンバ、

お腹の中から湧き上がってくるような力強さ。

胸がこみ上げてくる生命力、オロドゥンのサンバへギ、皆踊り狂った。

はるばるこんな遠くまでやって来たかいがあった。

生きる歓び、このエネルギー、貧しさを音にぶつけたような……。

ああ、すばらしい !! 生きていてよかった !

 

ブラジルは見るだけのところではない、おおいに感じるところだとつくづく思った。

5つ星ホテルの豪華さとは裏腹に、一歩外に出れば物乞いが……。

海岸沿いにあるポンフィン教会の前で見た、お守りのリボンを売りつける黒人達……。

おいしかったバイーア料理のムケカ、外にはこんなもの食べられない人達がいっぱいいるのに……。

この矛盾、本当に考えさせられた。

日本は確かに経済的に豊かかもしれない、しかしお金を得るためにストレスをいっぱいためて、

またそれをはき出すためにいっぱい消費する、そのくりかえし、

自殺者が毎日80人~100人もいるというし、陰湿な事件が毎日のように起る日本、

決して幸せとはいえない。

バイーアの子供達は目を輝かせて教室の代りにタイコをたたく、いつかオロドゥンのようになろうと夢中でたたく。

ああ、日本の元気をなくしている人達に聴いてもらいたい。

今、私に出来ることは?

それはこの店にきて、心から元気になってもらうこと、それが私のライフワーク。